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       追分探訪(江差の旅) 新潟市民文化遺産(越後追分)櫛野節謡

北国街道と中山道の分岐点に位置する信州浅間三宿(沓掛、追分、軽井沢)で発生したと言われる追分節が、新潟から北前船に運ばれて日本海を北上し、北海道江差の湊に根を下ろし、独特の節回しを持った唄として完成した。  江差追分と呼ばれるその唄は聞く者の心に強烈に訴える「何か」を内在し、それにふれた者の心に取り憑き虜にする。新潟に生まれ育った私も、子供の頃から江差追分は何度も聴かされ魅せられていたが、その江差追分の元唄と言われている越後追分という唄があるとは、唄はもちろん聴いたこともなくその存在さえまったく知らなかった。昭和四十八年に何か趣味の一つも持とうと始めた民謡にのめり込み新潟民謡界の元老といわれた鈴木節美師匠との出会いが私と越後追分けの初めての出会いであった。

鈴木節美師匠は、地元新潟の民謡を頑なに守り育て新潟民謡界の発展に多大の業績を残された功労により、国から勲五等瑞宝章を受章された人である。その節美師匠がライフワークとして取り組んでおられた唄が越後追分であった。節美師を師匠と仰ぎ、新潟民謡の指導を受けた私も、越後追分は特に力を入れての指導を受けた。その節美師匠も昭和六十三年に九十一歳で他界され、師の越後追分にかけた情熱や意志は、残された弟子達に引き継がれたのであった。

しかしである、江差追分生成の重要な役割を果たしたと言われる越後追分も、私には唄として唄っても聴いても江差追分のように強烈に人の心を引きつける唄の魅力が乏しく、自分が良かれと感じる美的感性を満足させてくれない不満がある唄なのである。この越後追分をどのように歌えば、江差追分のように聴く人の心の琴線に共鳴させ感動させることが出来るのか、それにはまず江差追分の地元 北海道江差へ行って、もっとよく江差追分を聴いたり調べたりしてみれば何かその答えが見つけられるのではないか、そんな気持ちから江差への旅を思い立った。

北海道江差町では毎年、九月の第三 金、土、日曜日に江差追分の全国大会が開催される。今年は九月十九日から二十一日までの三日間である。この大会に合わせて会社の休暇を取ることが出来たので早速、江差追分探訪の旅に出かけることにした。北海道へ行く方法としては、飛行機を利用する方法やJR鉄道、自動車を利用するなど幾つかの方法があるが、しかし越後追分から江差追分へと唄がたどった経路を考えるのであれば新潟ー小樽間を結ぶ新日本海カーフェリーで日本海を北上する海のルートで行くことこそ的を射て入るであろう。

平成九年 九月十八日 定刻十時三十分、私の乗り込んだ新日本海カーフェリー「しらかば」は霧雨の山の下埠頭岸壁から、一路北海道小樽港へ、その白い優美な巨体を細かく振動させながら出向した。小樽までの所要時間十七時間四十分の船旅である。日本海は前々日に九州を縦断し途中能登半島付近で消滅した、台風十九号の影響で浪頭が白く砕け、かなりの波のうねりがあるにもかかわらず、全長百九十五メートル、総トン数二万五百五十二トンの「しらかば」はびくともしない。四枚羽根の巨大スクリュー二基にそれぞれ一万二千馬力のエンジンを直結させた推進力で時速約四十キロメートルで悠然と進む。

正午十二時には粟島沖を通過、午後四時には男鹿半島沖を通過、途中一万トン級の鉱石運搬船を実にあっけなく追い越していく。この鉱石運搬船も決して小さい船ではないが速力は「しらかば」の半分くらいであろうか。船の舳先に波の飛沫が砕け、かなり船は揺れているのが見てとれる。水平線に落ちる夕日が見られるかと期待したが、曇り空のため見られなかった。夕食後は船の四階にあるビデオシアターで洋画を見て過ごす。映画を見終わった夜九時過ぎに、遙か水平線に今回の旅の目的地、江差の町の灯が転々と並んでいるのが見えた。「ここで下船できればよいのに...」と思ったが叶うべくもない。 ここから「しらかば」は小樽まで 積丹半島、神威岬を迂回してさらに七時間進んでいくのである。

九月十九日午前四時十分「しらかば」は小樽港の岸壁にその優美な巨体を無事着岸させた。数日前までの日本の民間港初の寄港で物議をかもした、アメリカ航空母艦インデペンデンスの見物騒動など、今はけはいすら感じられない静かさで小樽の町はまだ完全に寝静まっている。「しらかば」は小樽到着後、乗客や自動車は直ちに下船させられるので、乗客は小樽港ターミナルビルで、街が目覚めるまで、時間をつぶさなければならない。JR小樽駅は午前五時にならなければ中には入られないし、列車の始発も午前六時頃からである。小樽には石原裕次郎記念館やオルゴール館など、観光名所も多くあるが今回の旅の目的は別にあるので、それらには目もくれずとにかく江差に向かう。小樽から南へ、新潟から来た方向へ戻るような形で、 小樽ー倶知安(くちゃん)長万部(おしゃまんべ)大沼ー函館ー木古内(きこない)ー江差と、JR列車の乗り継ぎを重ね、江差の駅にたどり着いたのが、午後四時である。行き当たりバッタリの無計画さがたたって「しらかば」からおりて、北海道に第一歩を踏み出してから、なんと十二時間もかかってしまった。江差追分全国大会第一日目は、十九日午前九時から始まっているので、まずは大会会場である江差町文化会館へあたふたと駆けつけることとした。

文化会館までの道すがら、江差の街の所々から江差追分が聞こえてくる。街の電柱に取り付けられたスピーカに、江差追分大会の舞台マイクを接続させて大会会場の唄を街に流しているのである。文化会館前では、大会運営の駐車場係が地元警察官と一緒に交通整理を行い、入場者入り口にはゆでたトウモロコシやジャガイモ、コーヒーなどの無料サービスを追分会婦人部の連中が担当し、大会受付には町役場の職員が立っているという、まさに江差町官民総出の街を上げての民謡大会なのである。受付で千八百円の入場券を購入してから、今夜の宿を探さなければと受付の人に何処か宿はありませんかと尋ねてみた。「あんたね、宿の予約なしに来るなんてむちゃくちゃですよ、どこの旅館もこの江差追分大会期間中は予約で満杯ですよ!」言われて旅の疲れがどっと出る。それでも人の良さそうな係りの人は心当たりを何カ所か電話をかけてくれて、大会会場からほど近い「ホテルニュー江差」にキャンセル部屋があるとのことで、一部屋取ってくれた。こちらも明け方の四時から今まで動き回ってくたくただったので、すぐにホテルに行き風呂に入り前の日からの旅の垢を落としてやっと一息が付けた。

部屋の窓を開けると近くの電柱に取り付けられたスピーカーから大会会場の江差追分の唄がよく聞こえる。窓から見える江差の街の風景と、その街が醸し出す様々な音とともに聞こえてくる江差追分を聴いていると、はるばる江差へやってきた実感が湧いてきて旅情がそそられる。夜七時十分、この日の大会最終出場者の唄までそのまま聴いていた。

その夜江差追分全国大会のプログラムに眼を通してみて驚いた。江差追分全国大会は三日間にわたって行われる。初日と二日目は全国江差追分会、百四十五支部、四千五百人の中から選抜されたそれぞれ百七十五名ずつの予選コンクールを行い、三日目に合計三百五十名の予選出場者の中から七十名の決勝大会進出者を選んで優勝が争われる。

今年の春、仙台で行われた(財)日本民謡協会春期全国大会に参加したときに出演者控え室が同じ部屋で顔を合わせていた北海道留萌、佐藤会の卯子沢裕美さんが昨年度江差追分全国大会優勝者として、顔写真と名前が載っている。そのときはまだ控え室で江差追分を練習していた卯小沢さんの唄が素晴らしかったので「あんた江差追分ものすごく巧いねー」などと褒めていたのだが、まさか前年度の江差追分全国大会優勝者だったとは知らなかった。全国江差追分会四千五百人の頂点に立った人である 巧かったわけだ。

それともう一つ驚かされたことは、大会二日目、二十日のコンクール出場者の中に新潟県から七名の出場者の名前が見いだされたからである。この七名は私もよく知っている人達で、新潟県では相当の唄の実力を評価され実績を上げている人達である。翌日の七名の活躍を期待して早々に床についた。

明けて二十日は、前日のぐずついた天気が嘘のような快晴となった。新潟県からの大会コンクール出場者七名は、プログラムを見ると午後からの出番になっているので、それまで江差の追分節ゆかりの場所を、歩いてみることとして、朝食もそこそこに宿をでた。まずは東本願寺江差別院(東別院)へ向かう。

江差の町は階段状に街並みが連なり、その後ろの小高い山腹に東別院はある。日差しが強すぎて暑さで汗が滲み出る。ここには寛政年間に江差にやって来て、江差追分の元になる唄を唄い広めたと言われている、座頭佐ノ市の碑がある。江差追分全国大会の前日には、必ず大会関係者が全員ここに集まり、江差追分の祖師として親しまれている佐ノ市の法要が行われるという。それは寺の山門をくぐり、大きな瓦屋根の本堂脇左坂道を上ると墓地の入り口左に、立派な石碑としてあった。

中世以降幕府や諸藩が、視覚障害者救済政策として保護した、盲人組織に「当道」というものがあったという。そこには琵琶の平曲や地唄、箏曲などの音楽芸能を生業とする者や 鍼、灸、按摩など医療行為を生業にする者などが所属し、身分の階級が定められており上から、検校、別当、勾当、座頭と分けられていたという。佐ノ市の身分は座頭であったと言われているが、しかし「当道」の長い歴史の中で佐ノ市ほどその低い身分にもかかわらず現在も多くの人々に愛され親しまれている者も珍しいのではないだろうか。彼はその美声?と節回しで歴史に自分の名前を大きく刻んだのである。しかし佐ノ市の碑は彼の墓ではない。彼はその人生の出生から死に至った場所まで、いっさい不明のまま歴史に唄の節と名前だけを残して姿を消したのである。立派な佐ノ市の石碑の前で、人の一生とその役割とは何だろうと、しばし考えさせられた。

山腹の東別院から海岸道路までおりて、左にしばらく歩くと土蔵作り風の江差追分会館がある。この会館は昭和五十七年に、江差町の予算に江差追分会会員の寄付金などを合わせて、五億円を超える金をかけて建てられたもので、北海道無形民俗文化財としての江差追分を、世間に広く紹介するために建てられ、中には江差追分に関係する、江差町歴史民族資料が数多く展示されている。江差追分全国大会期間中は、入館料は無料との張り紙を見ながら中にはいる。一階は土産物の売店や畳百畳敷きの舞台付きの大広間などがあり、二階の展示資料室に上ると、そこには「江差の五月は江戸にもない」と謳われた、江戸時代中期から明治時代初期にかけての、鰊漁全盛で活気づいていた江差の記録が、絵や写真などを使って紹介されている。この頃の江差追分は、まだ酒席の一時の慰みに座興として、三下がりの三味線に乗せて唄われていたようで、追分という名前もまだ付いていなかったようである。

二階展示室の奥まったコーナーに、江差追分の唄の節がたどった、その発生から江差に至るまでの、唄の伝承、変遷の経過に関係していると思われる各地の唄が、イヤホンを耳に当ててボタンを押せば聴くことの出来る、モニターボックスがずらりと並んでいる。その中の一に「越後追分ー鈴木節美」のボックスを見つけて感激する。最初のボックスから最後のボックスまで、順を追って聴いてみると、確かにどの唄にも共通する一本の節の流れが見えてくる。

人の視線を感じて顔を上げると今日江差追分全国大会に、新潟県から出場する出場者が一人立ってこちらを見ていた。彼はこれから一緒に来た出場仲間と一階の大広間で、江差追分の格付け審査を受けるという。自分の唄う江差追分がどの程度のレベルなのか、江差追分師匠会の人達に唄を聴いてもらい、格付け状を交付してもらうのだそうである。彼と一緒に一階の大広間へ行くと、二人の彼の仲間に会う。彼らに「コンクールに出場するのか?」「格付け審査を受けるのか?」と聞かれるが私はただ江差追分を聴きに来ただけだと説明すると、彼らは怪訝な顔をしていた。

彼らは格付け審査状をもらうと、すぐに自分たちのコンクールの出番に備えて、江差町文化会館に出かけて行った。私は彼らと別れて、追分会館から海岸道路を鴎島へと向かう。会館から鴎島までは徒歩で二十分くらいの距離である。カンカン照りの日差しのため、暑さで閉口する。昔は弁天島と言われていた鴎島は、地図で見るとカモメが江差町に向かって翼を広げたような形をした、海抜二十メートル、周囲二.六キロメートルの小島である。江差町から鴎島までは、コンクリート製二車線の堤防道路で結ばれている。

島の入り口に浜茶屋風の土産物店兼食堂があったので中に入りラーメンを注文する。新潟から北海道に来てまず感じたことは、ご飯が不味いことである。新潟を離れると新潟の米の美味さがよくわかる。その点ラーメンの味は、新潟も北海道も同じように美味いのでありがたい。食堂から海を見ると、巨大な里芋を逆さに立てたような、岩が海から突き出ている。頭に全長三十メートルと言われている しめ縄が巻き付けてあるこの岩は鰊群来の伝説を持った「瓶子岩」だという。食堂の隣に漁網が並べて干されており、その奥に一軒の家が建っていて、玄関の横に「江差追分鴎声会道場」と大書された古い看板が掛かっている。江差追分名人の一人である「青坂満」の自宅だと、ラーメンを作りながら食堂の女主人が話してくれた。この人は年格好からして青坂満の奥さんかなと思ったが確認はしなかった。

鴎島には日本海を見下ろす頂上部に、昭和七年に江差追分会有志十三名の手によって江差追分記念碑が建てられている。揮毫は当時の北海道長官「佐上信一の手によるものだそうで、達筆な字が刻み込まれていた。

江差追分全国大会の、新潟県出場者の出場時間が気になりだしたので、急いで江差町文化会館まで向かう。やはりカンカン照りの日差しの下、汗を拭き拭き三十分ほど歩いて文化会館までたどり着くと、入り口付近のテントの中からボランティア婦人会員に、コーヒーの無料サービスを勧められた。人情のこもったそのコーヒーの美味かったこと、朝から歩き回った疲れも吹き飛ぶ思いがした。

江差町文化会館の追分大会会場は、床に敷物を敷いた上に、観客は座ったり寝ころんだりの思い思いの格好で、舞台上の出演者の唄を聴いている。江差追分は難曲である。舞台上の唄い手は死にものぐるいの真剣さで唄っているが、観客は下手な唄には薄情なくらいに、唄い手に注意を払わない。しかし上手い唄になると、今まで無関心だった観客の意識が、サッと唄い手の集中力と同調して緊張感が会場に張りつめる。観客はきわめてシビアで厳格な審査員なのである。出演者は男は背広にネクタイ着用、女も洋服をきちんと着て普段着や、だらしのない格好で舞台に上るものは誰もいない。舞台の上は神聖な場所であり、そこに上るものは威儀を正して上るべきである、との指導が徹底しているのか、見ていて気持ちがよい。しかし紋付き袴や、和服で出る人が一人も居ないのはどうしたことであろうか、不思議な感じを受けた。現在の江差追分は、他の民謡と著しく違う特徴が一つある。それは唄の節が、唄い出しから唄い止めまで「モミ」「スクリ」「セツド」「ノシ」など、節の歌い方の約束事が決められており、それらをいかに完璧にクリアするかの唄なのである。

昔、江差追分名人「初代浜田喜一」が民謡雑誌に次のような一文を載せていた。(今、北海道では、江差追分の唄い方が色々あっては、習う人も困るだろうと言う配慮からか、「正調江差追分」として一つの唄い方を定め、それを広めているようであるが、しかし江差追分の場合でも他の民謡と同じく、「正調」などと言えるものはあり得ない。大正の頃、同じ北海道でも江差追分はいろいろな名人達により、それぞれに異なった独特の唄い方があった。そしてそのどれもが味わい深く魅力があり、それぞれが深い感銘を人々に与えた。追分もこのように、多彩な唄い手が輩出している時代の方が、画一的な唄い方をする今よりも、良いように思える。なぜならば、今までがそうであったように、悪い唄は自然に淘汰され優れた唄が残り、絶えず向上を続けるからである)

昔、節美師匠に越後追分を習っていた頃、(十人が越後追分を唄えば、十の越後追分がある)と師匠が言っておられた言葉が思い出される。江差追分全国大会とは、その規模や知名度、参加者の唄のレベルなど、比べようもないが越後追分全国大会も新潟で開催されているが、そこで唄われている越後追分は、各人各様の越後追分が唄われており、その審査基準は減点方式ではなく、唄全体のフィーリングの善し悪しの採点である。それだけに審査にあたる審査員は、唄の善し悪しの違いを聞き分けられる鋭い感性を要求される。越後追分の普及発展の切り札として、節美師匠が始められた、越後追分全国大会の行く末は、ひとえに審査員の質にかかっていると思える。

二日目の江差追分大会コンクール終了は午後七時であった。それから二日間にわたって争われた三百五十名のコンクール出場者の中から、七十名の決勝大会進出者の発表があった。まずは六十五歳以上熟年の部から、二十名の決勝進出者の発表である。新潟県から出場した七名の連中と一緒に、出演番号を確認して固唾をのんで発表を聞く。四十六番 新潟県北蒲原郡関川村 本間久夫の名前が読み上げられる。(やったー)さい先の良いスタートである。もう一人熟年の部に出ているが彼の方はどうか?しかし彼の名前は呼ばれなかった。続いて一般の部五十名の決勝進出者の発表では、無情にも新潟県から五名の出場者の名前は、誰も呼ばれなかった。悔しさをバネとして、来年の大会を目標にまたがんばると、連中は宿へ帰っていった。

二日目の大会行事がすべて終わったのは夜七時四十分である。「ホテルニュー江差」の食堂は夜七時三十分で閉店してしまう。晩飯は、ホテルの向かいにある居酒屋で済ませようと中に入って生ビールを飲んでいると、ガヤガヤと一グループお客が入ってきた。見るとなんと、今年の春 仙台の(財)日本民謡協会春季大会で、控え室が一緒であった、あの留萌 佐藤会の連中である。(ヤアヤアこれは奇遇で、マアマアこちらに来て一緒に飲みましょう)と言うことで意気投合、民謡仲間は排他性が少なく、開放的ですぐ仲間になれるのがうれしい。仙台では卯子沢さんが前年度江差追分全国大会優勝者であることを知らなかった自分の不明を詫びてから民謡談義に花が咲く。

しばらく話が弾んだ後に、江差追分が唄い出しから唄い止めまでキッチリと、唄い方が定められている点と、初代 浜田喜一名人の、民謡雑誌に載っていた所感文を並べて、本場北海道の人達はどのように思っているのか聞いてみた。彼らの話によれば、江差追分は昭和五十二年に、念願の北海道無形民俗文化財に指定され、文化庁、北海道庁より振興助成金を受けることとなった。しかしその時、江差追分の唄い方や節がバラバラでは困ると言われたという。

また現在唄われている江差追分は、江差追分師匠会が総力を挙げて、その情念、感性、歌唱技法のすべてを盛り込み集大成したもので、これ以上どう良くして見ようもない自信作ではないかという。それを証明するかのように、全国津々浦々から、大の大人が眼の色を変えてこの江差に集まり、江差追分を唄い競い合っている。また全国各地の腕に覚えの唄自慢が、この江差追分全国大会コンクールでは全く歯が立たずすごすごと帰っていくのを、私も今見てきたばかりなのである。さらには私自身、越後追分に物足りなさを感じて、ここ江差に引き寄せられるように来ているではないか!彼らが現在の江差追分に寄せる自信や誇りに対して一言の反論もない。

江差追分には江差の歴史がそのまま塗り込められているという。「江差の五月は江戸にもない」と言われたほどの繁栄を誇った鰊の豊漁も明治三十年代には鰊がほとんど捕れなくなり、明治三十九年 鰊漁は終焉を迎える。江差は経済基盤を失い鰊漁に関わっていた人々は、離散の憂き目に立たされることとなった。そのような厳しい現実に押しつぶされようとする精神救済の祈りか、それとも唄の持つ呪力を無意識に感じ取り、鰊漁の復活を念じた呪文か江差追分はこの頃から、酒席の座興唄から一変してその姿を変えていくこととなるのである。禅宗の一派、普化宗の読経は尺八の吹奏であり、尺八は本来楽器ではなく法器であったが、江差追分の伴奏に尺八が使われるようになったのも、この頃からであるという

江差追分に唄い込められている歌詞の多くは、出稼ぎ鰊漁の労働に追われるヤン衆と呼ばれた男達やオロロンと呼ばれた女衆達の出会いや惜別の情や郷里に思いを馳せる望郷の念が多く詠まれておりやがてそれは、人生に付きまとう無数の出会いと、離別の情を唄うものから、祖先の魂が込められた別れの唄となり、さらには祖先にたむける念仏ともいえる畏敬を込めた鎮魂歌へと昇華していったようである。江差追分を唄うときは、全身をかけて唄い込む。それは宗教の悟りを追求する求道者と同質のものという。冗談じゃない。これでは越後追分はとてもじゃないが、一寸やサッとでは江差追分に叶うわけがないと思った。唄に込められた情念の深さや量が桁外れに違うのである。居酒屋で留萌佐藤会の連中と酒を飲みながらの話は大変な収穫となった。彼らとまた何時かの再会を期して別れた後、ホテルに帰り考えさせられた。

新潟は江差の鰊のように米が全く穫れなくなったと言う事もなく、町の経済は順調に発展を続けてきた。江差と比べて、祈りも呪文も身につまされて求めることなど、多少の自然災害に痛めつけられても直ぐに力強く復活できるだけの条件に恵まれていたため、必要がなかったのである。究極の完成の域に達した江差追分の唄と比べて越後追分は未完の(それが民謡の本来の姿ではないかと思うが)進化の途中の唄といえよう。

江差と比べて 新潟はのどかなのである。しかし江差追分は唄の究極の完成過程において、余分と思われるものはすべて捨て去ってきているが、越後追分にはまだそれが残っている。たとえば本唄を六節で唄うものや、二上がりの新内を唄の中に入れる唄い方などである。それら遊び心も、歴史的に見れば、一つの文化遺産であり歴史的資料の一つではなかろうか。時代の流れに越後追分をこれからどのように方向付ければよいのか、越後追分で人を感動させるにはどうすればよいのか、何とかしたい思いはあれど私には少々手に余る難題に思える。

翌二十一日は、江差追分全国大会最終日の決勝大会である。会場は二日間の予選大会の時と違い超満員の観客で立錐の余地もない盛況である。 鳥肌の立つような感動する唄が聴きたくて、集まった人々の期待が熱気となって 会場に溢れる。しかし誠に残念ながら、私の休暇は今日までで今日中に新潟に帰らなければならない。帰りは函館から新潟まで一時間足らずの空の旅で江差まで来るに要した時間が信じられないようなあっけなさであろう。  全日空四百六十八便、十六時三十分 函館空港発 新潟空港行の飛行機出発時間に間に合わせるべく、これからいよいよ江差追分決勝大会の舞台も佳境に入ろうとする昼の十二時に江差発函館行きのバスに乗り込み、江差追分の唄が流れる江差の街並みに無念の別れを告げた。

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